憧れの島 竹富

レオナルドはいつも、神の創りたもうものを見る時には、神がどのようにしておつくりになったかを感嘆せずにはいられず、人の造ったものを見る時には、どうしたらもっとよくなるかを考えずにはいられなかった。

出典 ジョコンダ夫人の肖像 E.L.カニグズバーグ作 松永ふみ子訳

 

建築をやっていてよかったと思うのは、旅行のときかもしれない。私にとって旅行は気晴らしではなく、勉強だと考えている。勉強であるかぎり、旅行は消費ではなく、投資となるからだ。旅で得たものを仕事に反映したいと常に考えている。また、建築をしているかぎり、そのチャンスはどこかであるのだ。

 

4月のはじめ、家族で竹富島に行った。若いうちに行きたいところに行くというのが妻の方針だ。その方針に、はじめは違和感を感じていたが、旅行が投資ならば、早いほうが、その効果があるはずなので、渋ることはあっても反対はしないようにしている。

 

竹富島は憧れの場所のひとつだった。伝統的な文化や自然が、極めて理想的な形で、かつ徹底的に保存されている場所は日本中どこをさがしてもこの島以外にないと思う。訪れたあととなっては、もはや憧れの場所でなくなってしまったのは残念ではある。たった2泊3日の短い旅で、憧れの気持ちが吹き飛んでしまったのはなんとも切ない。しかし、そのかわりに得たものはなんだったのか。大きなものを得たことは間違いはないのだが、一言では表せない。

 

私にとっての憧れの場所は、美しい場所のことであるが、美しいものは儚いと常々思う。人々が生きて行く上で、美しい場所は常に損なわれる危機にさらされており、その美しい場所を守るために、如何にその地域の人たちが努力をしているか… 旅行をするたびに強く感じることだ。特に、歴史的な美しさは一度失われると取り戻すことはできない。資本主義経済の日本において、また日本の建築の法制度や税政下において、それらを維持することが如何に難しいことかが分かるだけに、竹富島の美しさは努力を超えて、奇跡とよべる。

 

 

私達が宿泊したのは星のや竹富島だ。身分不相応とは思うが、このクラスのホスピタリティを経験することは、建築をするものにとっては、なによりも勉強になるのだ。おもてなしというと、人が人にすることだけを指すように思われがちだが、リゾートにおいては、環境が人をもてなす部分が大きい。そういった場所の建築がどうあるべきか、如何に難しい課題と立ち向かわなければならないか、少し想像しただけでも分かるであろう。星のや竹富島は奇跡そのものだった。

 

 

星のや竹富島は一軒家に宿泊するスタイルだ。その一軒家はここの地域の民家の形をとっている。グックとよばれる石垣によって囲まれていて、気持ちよくプライバシーが守られている。その一軒一軒が寄り集まって集落を形成している。一種のユートピアのような場所だ。その集落の周りを散策する。そして自分の家に帰る。まるで、自分がその島の人間になったような気分がした。もちろん、島の生活は甘いものではないと思う。島の一番良い部分だけを切り取って、そこだけ頂戴していることはわかっているのだけれど。一瞬だけでもそこで生活している気がしたことは、なによりのギフトだったと思う。星のや竹富島のコンセプト通り、私達は、3日間だけ、島の人間になれた。

 

 

さり気なくグック(石垣)に包まれていたが、この塀は建築基準法的にはどうだろう?という疑問が湧いた。おそらく、同じものを神戸で作ることは出来ないだろう。竹富のグックは竹富の職人がつくるから大丈夫なのだ。歴史が証明している。このリゾート地を建設する際に、このグックをめぐって一悶着あったかもしれないが、よく乗り越えたと思う。

 

歴史的な事実として、五重塔も石垣も、倒れたり、崩れたりした事実はないのである。優れた現代理論で説明のつかないときどう考えるのが正しいのだろうか。答えは、理論のほうが間違っていると考えるのが正しい。正しい理論は、現代の理論ではなく、その事実を説明できる別の理論でなければならないのである。事実が説明できるのが理論でなければならない。

出典 日本の木造建築史 第8回 近世の城郭・藩校 増田一眞 著

 

私を含め、法や理論に基いて仕事をしている人間は、ときどき大きな見落としをする可能性があることを知らなければならない。私達の伝統や文化に根ざした豊かさを守ることが大事なのか、決まりどおりのことをすることが大事なのか、この旅をしたことで、私のなかに一つの基準ができたように思う。

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