小学校としてつかわれなくなった校舎のそのあと

京都の小学校校舎で現代アートの展覧会があり、見に行ってきました。

アートなどに詳しい知人の誘いです。なんの予備知識もなく行きました。

この日、雨が降っていましたが、この展覧会の雰囲気には大変マッチしていたと思います。

展覧会のタイトルは「見立てと想像力−千利休とマルセル・デュシャンへのオマージュ展」。何人かの作家が教室や保健室や理科準備室、音楽室などをつかって展示をしていました。この展覧会で一番のお気に入りは上の写真の作品です。作家は小松千倫という1992年生まれの方です。保健室をつかったインスタレーションでしたが、保健室全体の空気そのものが作品だったのでしょう。一歩踏み入れた途端、何かの気配に包み込まれ、良い意味で不気味でした。

一般的に現代アートは何もない白い空間、所謂ホワイトキューブで展示されますが、今回のように校舎といった、ホワイトキューブ以外の場所でも展示されます。そういった場所では、作家はその場所性と対峙せざるを得ないのですが、作家のこの場所に対する回答は、流石と思いました。本当に素晴らしい感性です。

階段の蹴上には子供が学習するためのアルファベットがありました。月曜日には子供たちがいつものように登校してきそうですね。現在も第二教育施設として活用されているそうですが、新校舎が完成した後はどうなるのかわかりません。

ヘールシャムは今日明日にも閉鎖され、ホテルチェーンに売却される……。ロジャーからそう聞いたとき、わたしの口をついて出た言葉は、「じゃ、生徒たちはどうなるの」でした。 −中略− わたしは、「わたしたち」のことを言いました。わたしと一緒に育ち、いまは全国各地に散らばっている介護人と提供者。今は別れ別れになっていても、ヘールシャムで育ったという共通の一事で結ばれているわたしたちのことです。

(抜粋 「わたしを離さないで」 カズオ・イシグロ 訳=土屋政雄)

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を引用するまでもないのですが、学校がなくなることは大変センシブルな事柄です。主人公、キャシー・Hが感じた損失を、その小学校を卒業した人なら感じることでしょう。感傷的になってしまう話題です。この校舎は、耐震性がないことから、小学校として再び使われる予定はないようです。耐震性の有無は、法律に拠って判断されます。法律は私達の命や健康、財産を守ってくれますが、なにか大事なことを見落としていような気がします。永遠に存続するものはありませんし、全ての小学校を活かし続けることはナンセンスだとおもいますが、この小学校には、実に良い経年変化の跡がみられ、失うのが惜しく思われました。廃校になった校舎を、美術館やその他の施設に転用するような事業がなされていることもありますが、小学校でなくなった校舎には、魂が失われるように思います。このような校舎でこそ、子供は育つべきなのに……と私一人が悩んでも仕方がないことですが、色々と考えさせられます。

今回の展示は大変素晴らしいものでした。しかし、このようなインスタレーション型の現代アートは期間限定あるからこそ、輝きをもつものです。それに、人の心を通過していくだけのものです。それは、あたかも、失われた魂の慰み、あるいはそれ弔う墓標のように感じました。。。陰鬱な天気のせいもあってか、感動と、寂しさが入り混じった複雑な気分の一日でした。

 

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