淡路瓦の住宅

「商品のかたちをとった虚無主義によってあらゆるアイデンティティ、あらゆる異論、あらゆる批評的で文化的な要素がなぎ倒され、人間の想像力が完全に植民地化されようとしている。」

カサベラ874号(イタリアの建築雑誌)の掲載文のなかにあった、哲学者の言葉だ。

自分自身の設計を省みて、商品化されたものが年々はばを利かせており、その勢力に抵抗できずにいるのを情けなく思う。開口部はアルミ製以外のものは余程の場合でない限りは選ばない。キッチンはシステムキッチン、浴室はユニットバスはもはや当たり前となってしまった。いまや、その部分を施主の完全自由とすることで、建築家との家づくりにともなうストレスのガス抜きの場所として利用しているのは私だけではないと思う。そして、最近では室内に使われる木製の扉までもが既製品に取って代わろうとしている。そこでは、施主はカタログから気に入った柄や色の建具をあらかじめ選ぶことができる。それは表面材が天然木の突板ではなくメラミン化粧板やオレフィンシートといった模造品であるからこそ可能なのだが、自然素材よりも人工の素材に信頼を置く人も少なくない。

「商品のかたちをとった虚無主義」という言葉は抽象的だが、このような社会状況下でデザインするときに感じる虚しい気持ちと私は解釈している。私たちは施主の買い物の代理人に限りなく近づきつつある。それらのコーディネートを委任できる人はデザインナーや建築家に対し、まだ理解がある方だと言えるかもしれない。

カサベラでは、近年途上国の建物をよく取り上げている。施工の粗さが目立つものの、全体の形やプランニングはいたって現代的なものが多い。そこには不思議と洗練がある。作りの繊細さ、表面の滑らかさ、部材の細さがなくとも美しい現代建築があることに気付かされる。もちろん、そこには商品化された建材が組み込まれていない。そのため、技術やデザインの純粋さや素直さを感じる。それは、多くの先進国の住宅で失われていると思われる。これからの建築デザインの主な舞台はグローバル化が定着しきっていない途上国へと移る傾向はますます強くなるであろう。向こうはどのように思うか知らないが、スタジオ・ムンバイやガビネテ・アルキテクトゥーラを羨ましく思う。

今、淡路で住宅の現場が進行中だ。施主の希望に添って、淡路瓦に木張りの壁の家とした。敷地の周辺にはおなじような作りの民家がまだ多く残っている。何年か経てば、この家は、随分前からあったかのように、場に馴染んで行くと思われる。周辺環境から自ずと決まるデザインも良いものだなと現場へ行く度に思う。

先日現場へ行くと、ちょうど瓦を葺いているところであった。その日、構造設計の方が金物の検査に来てくださったのだが、屋根に土が乗っているのを目ざとく見つけ、興味津々となって、職人にいろいろと根掘り葉掘り聞き始めたのだった。私はそれを隣で聞かせてもらった。

 

瓦は現在では乾式といって、水気を含まない形で施工することが多い。そのため、土は使われないという先入観があった。どうやら、けらば瓦や軒瓦、熨斗瓦を据えるのに土が必要なようである。特に一文字瓦のような瓦だと、軒先のラインがピシッと決まらないのであろう。職人の話によると、淡路瓦も進化し、地震や台風に対する対策が講じられているそうだ。瓦の隅に爪のような部分があるのだが、これが互いに噛み合うことで、台風に吹かれても瓦がずれないとのことだ。昔は台風の度に瓦がずれ、その度に補修のためにお呼びがかかったそうだ。

淡路瓦は私のこだわりではなく、施主のこだわりであった。私はむしろ、コストや耐震性の観点から金属屋根を推していた。こうして、職人が施工する姿を見ると、瓦を乗せてよかったと思う。昔からの営みが引き継がれた感じがしたからかもしれない。いままで経験したことない思いだ。

コメント